「清流の国ぎふ 移住・交流センター」で、人生が大転換
岐阜県は海なし県ですが、山紫水明の自然に恵まれ、鵜飼で有名な長良川を筆頭に、恵み豊かな川が多数あります。山の国であると同時に清流の国でもある岐阜県では、淡水魚の養殖事業が行なわれています。山から流れる良質な水を使って、希少な渓流魚が養殖され、出荷されているのです。
「郡上おどり」をはじめ、長良川水系の吉田川やレトロな町並みで知られる古都、郡上八幡。そこから車で15分ほどの距離にある明宝地区の「かのみずあまご園」は、名前の通り、アマゴの養殖場です。
アマゴは西日本を中心に生息する、渓流釣りファンに人気の魚。東日本などに生息するヤマメとほぼ同じですが、アマゴには赤い水玉が見られます。サケ科のサクラマスの亜種であるサツキマスの一種で、海に下って戻るタイプはサツキマスになりますが、ずっと川にいるタイプはアマゴのまま。見た目も美しく、上品な味わいのアマゴは、高級魚として扱われています。
かのみずあまご園は、吉田川支流の寒水(かのみず)川沿いに位置する寒水集落にあり、地元に住む和田孝平さんが、1974年に創業しました。20歳そこそこであまご養殖に挑戦して事業を成功させ、ずっと続けてきたのです。しかし後継者がおらず、近年はそれが悩みの種でした。
そんな和田さんのもとに、2019年秋、事業を引継ぎたいと一人の若者がやってきました。それが埼玉県出身の西川弘祐さん。
西川さんは、県が東京などに開設している「清流の国ぎふ 移住・交流センター」での相談をきっかけに移住を、そして引継ぎ候補になることを決めました。
<事業主> 和田孝平さんの思い アマゴ養殖は、水の美しい土地だからこそ成功した事業。20歳で起業し、続けてきました。
かのみずあまご園の周辺は、もともとアマゴ養殖の盛んな地域で、かつては同業者がアマゴ組合を組織し、昭和のピーク時には13の事業者が加入していました。食用の成魚はもちろん、養殖用の稚魚や卵も、ここから全国各地へ供給されたのです。
しかし、事業者が高齢化して廃業が相次ぎ、組合も解散。アマゴ養殖を継続しているのは和田さんを含め3軒になってしまいました。
「アマゴ養殖の技術が開発されたのは1969年頃ですが、初の事業化は、その2、3年後、岐阜県で初めて成功しました。岐阜は、あまご養殖事業発祥の地。水が豊かできれいですから、うってつけだったんです」
和田さんは、寒水集落の養蚕や農業を営む家に生まれましたが、釣りが好きで、親戚が魚養殖を手がけていたこともあり、少年の頃から魚の養殖に興味を抱いていました。そして、あまご養殖事業の成功を見て、「自分もやってみようと」と決意。それまで家業を手伝う傍ら土木建築の仕事にも携わっていた経験を活かし、自力で池を作り、アマゴ養殖に取り組みました。
「養殖を始めたのは、地元でもかなり早かったと思います。県の水産研究所にも何度も足を運んで質問し、自分なりに勉強・工夫して頑張りました。池にしても、魚を選別・仕分けする装置にしても、設備のほとんどが手作りです。私はいろいろ作るのが好きで、どうやったらうまくいくのか、作業が楽になるのかと考えながら、一人で何から何までやってきました。若い時に始めたこともあり、今まで順調に続けることができましたが、年齢が上がるにつれて、先のことが気になり始めたんです。子どもや身内の若い世代は、それぞれ就職して自分の仕事を見つけ、アマゴ養殖を継ぐ気はありません。後継者をどうするかが課題でした」
頑張ってつくり上げた設備やノウハウを無にするのは惜しい、お客様にも申し訳ない。
「やれるだけやって、体力的に無理になったら廃業してしまうという手もあります、それは簡単なんですが、今まで努力してやってきた自分としては残念で、惜しい。ありがたいことに、長年やってきて信用もついてきていますから、取引先にも申し訳ないと思うのです。同業者が減った今、私もやめてしまったら、アマゴを供給できるところは、いよいよ無くなってしまいます」
アマゴは、岐阜県が誇る清流の魚の一つで、旅館や料亭などで提供されることがほとんど。また、渓流釣りファンにも人気で、シーズンには多くの釣り客がアマゴを狙います。
しかし、自然の川で産卵し、孵化・成長する天然物は非常に数が少なく、養殖魚が需要をカバーしています。かのみずあまご園のような、自然豊かな環境で養殖されるアマゴは、希少な渓流魚の減少をくい止める役割も担っているのです。事業の存続は、単純に商売だけの問題ではありません。
「何とかならないかと、岐阜県池中養殖漁業協同組合に相談し、組合を通じて後継者探しを県に依頼しました。事業の内容や採算、引継ぐための条件なども書類にまとめて提出したんです」
そんなアクションを起こしてから2年近くたった2019年の秋、和田さんは、県の紹介でやってきた西川さんと出会いました。
初めて会った都会の若者に可能性を感じて
「誰かに継いでもらえれば」と考え始めた5年程前、和田さんは事業所名を現在の「かのみずあまご園」に改めました。それまでは「和田水産」でした。
「私の名前じゃない方が、新しい人がやりやすいと思って名前を変えました。継いだ人が、また変えてもかまわない」と語ります。
実は、以前にも別ルートから「アマゴ養殖をやってみたい人がいる」と紹介され、会った人がいたのですが、年齢が自分と大差なかったため、将来性に不安を感じて断ったことがありました。西川さんは県の、しかも東京の「清流の国ぎふ 移住・交流センター」窓口でつながった若者という話。
県を通じて、郡上市商工会の担当者から紹介を受けた和田さんは、本人が現地訪問を希望していると聞いて、日程を調整してもらいました。そして約束当日、西川さんが訪ねてきました。
「個人情報は、名前と埼玉県から来るということしか聞いていませんでした。初めて会った西川さんは、まじめで素直で、都会の若者なのに都会っぽくなくて純粋な印象でした。すれていない純朴な感じで、落ち着いていましたね。少し話しただけで人柄の良さが分かりました。だから、アマゴ養殖の仕事の説明をして、本当にやってみたいのか、将来、自分が事業主となる覚悟があるのかどうか、彼の気持ちをしっかり聞きました。引き継ぐにしても、3年は私と一緒にやって仕事を覚えてもらわなければいけませんし、どういう形で譲るのかといった条件もありますから、私なりに考えたプランを説明しました」
好きこそ物の上手なれ、特殊な仕事でも、広く発信すれば、向く人が見つかるものです。
出会いから数日後、和田さんの元へ、西川さんが快諾したという連絡が届きました。
「早くて驚きましたが、うれしかったです。長年の悩みが消えてやれやれという気持ちでした。それからはトントン拍子に進みましたね。県や商工会の方にもいろいろお世話いただいて、西川さんは11月の終わりには私の元で働き始めました。実際、一緒に仕事をしてみて分かったことは、彼はとても物覚えが早い! 先日も荷造りをやってもらったんですが、一度教えたら、2度目は、もう先回りしてやってくれてるんです。本当にいい人がきてくれたと喜んでいます。彼は、もともと釣り好きなので、やはり、“好きこそ物の上手なれ”だと思います。アマゴは2年くらい生きる魚ですから、まずは2年間で一通り経験をしてもらって、仕事を覚えてもらうつもりです」
それまでは一人で黙々と作業していた和田さんは、今、未来を託すべく、毎日、西川さんに作業を教えています。「かのみずあまご園に、若い引き継ぎ候補がやってきた」という朗報はまたたく間に地元や同業者に伝わり、最近、県や商工会に、同じように継業の相談をする事業者が増えてきました。
「自力ではどうにもならなかったことが、行政や商工会、組合などがサポートしてくださったおかげで道が開けました。養殖は特殊な仕事で、しかも、地方の山の中でコツコツとやっていたわけですが、それが広く発信されて、西川さんのような人とつながったわけですから、ありがたいです。東京に、県の窓口があったおかげですね」
<引き継ぎ候補人> 西川弘祐さんの思い 自然の中で働きたい、相談したふるさと回帰支援センターで、思いがけない出会い
埼玉県で生まれ育ち、東京のIT系企業を退職し、次の就職先を考えていた西川弘祐さんが有楽町の交通会館8階にある認定NPO法人ふるさと回帰支援センターを訪れたのは2019年の9月のことでした。
次の就職先を考えたとき、西川さんは、漠然と「緑豊かな自然の中で働けるような仕事がいい」という思いを持っていました。そして、「自然イコール地方だろう」と、足を運んだのです。同センターには各県の移住相談窓口が設置してあり、岐阜県も「清流の国ぎふ 移住・交流センター」として窓口を設けています。
西川さんは、特にどこを希望するというわけでもなく、「緑の自然の中でできる仕事といえば林業くらいか」と、林業希望と伝えました。そこで対応した担当者が、林業についてならと、山の国である岐阜県の岩瀬相談員に説明のサポートを依頼。西川さんは岐阜県の相談員から林業について説明を聞きました。そして、「なぜ、林業をやりたいのですか」という話になった際に、「休日に田舎へ行って釣りをしているときが一番楽しくて、ずっと、そういう自然の中に居ることができたら良いと思ったから」と回答したのです。
林業の話をしていた相談員が、「山の中で魚を養殖する仕事もありますよ」と言ったのは、そんなきっかけでした。そのときは簡単な話を聞いただけで帰りましたが、西川さんは、それから次第に養殖の話が気になり始めました。
記憶の底にあった本当にやりたかったことと、たまたま聞いた話がリンクした!
「自然の中が楽しい、こんなところで働いて暮らしたいと強く思ったのは、実は、前年に友人と遊びに行った飛騨小坂の釣り堀で釣りをしていたときだったんです。そこも養殖魚の釣り堀で、そのときに“ここで働けませんか”って聞いたんですよ。でも、“雇えない”って言われました。そんな事を思い出して、そもそも林業じゃなくて、楽しかったのは魚釣り、働きたかったのは岐阜県の山の中の養殖場だったって気がついたら、どんどん興味が出てきたんです」
その夜、西川さんはセンターでもらった名刺を見て、岩瀬相談員のアドレスにメールを送りました。「養殖の仕事の話を、もっと詳しく聞かせてください」と。
その後、再びセンターを訪れ、話を聞いた西川さんは、相談員や県の担当者による確認・調整を経て、現地で和田さんと対面しました。
プラスの方向への転換は、意外なほど、物事が順調に楽しく進みました。
当日は、夜行の高速バスとレンタカーで郡上市明宝寒水へ到着しました。郡上八幡へは遊びに来たことがありましたが、そこは初めて訪れた土地。
「静かできれいで、住みやすそうなところだと思いました。車で15分ほど走ればコンビニや道の駅があるので意外と便利ですし、スキー場も近くて良いところだなと。スノーボ―ドも大好きなのでラッキーでした。」と、印象を語ります。
和田さんとの出会いも気持ちのよいものでした。
「とても温厚な良い方で、聞きたいと思っていたことは全部聞けたので安心しました。その場で気持ちが固まって、何の抵抗もなく、自然にやろうと思っていました。なんだか感覚的に養殖の仕事に惹かれた感じです。フィ―リングが合ったっていうんですかね」。
西川さんは埼玉へ帰ると、すぐに岩瀬相談員に「ぜひ、やらせてください」と返事を送りました。
両親など家族にも話したところ、「いいね、やりたいのなら行きなさい」とすんなりとOK。全てが順調に進みました。
「埼玉県を離れ、岐阜県へ来ることにマイナスの気持ちは一切なかったです。ワクワクして楽しみが募るばかり。頑張ろうと心から思いました」
新天地で、新しい仕事と生活を楽しんでいます。
11月末、西川さんは郡上市明宝に移住し、和田さんの引き継ぎ候補人として働き始めました。住まいは、ちょうど和田さんの自宅の離れが空き家になっていたため、そこを借りて居住。仕事柄、平日の昼食は和田さんのところで提供してもらっていますが、終業後や休日は、何ら束縛されることはありません。
「休日はドライブやスノーボードを楽しんでいます。日によっては、仕事の後にスキー場に行くこともできて、こんな生活は東京にいたときには考えらませんでした。毎日疲れて電車通勤していた生活が嘘のようです。仕事も、日々新しい事にチャレンジして吸収していけるので楽しくて、全然疲れません。不謹慎な例えかもしれませんが、生きた魚に触れて、体を動かして水槽に入ってワクワクする生活は、毎日、学園祭の準備とか学校のプール掃除をやっているような感覚なんです。配達のために週に3日岐阜市に行くことも、ドライブが好きなので気分転換になって楽しいです。」
移住先で楽しく生きる鍵は、人とのつながり。身近な仲間が支えになります。
「仕事の楽しさや働き方は、期待以上でした。正直、プラスのギャップばかりです」。快活に語る西川さんですが、最初は、プライベートな時間の使い方を持て余した時期もあったそうです。
「もともと縁もゆかりもないところへいきなり来たので、和田さんご夫婦以外に知っている人が誰もいませんでした。ラインなどで友人とトークすることはできますが、リアルに話したり、遊んだりできる人がいなかったのは辛かったです」。
移住前、西川さんは「ネットがつながる環境」にこだわりました。それは外せないチェックポイントで、和田さんのところは難なく条件を満たしていましたが、いくらネットがつながっていても、身近に付き合える友人がいないのは寂しかったのです。
「埼玉にいた時なら、暇なときはひとりで電車を使って東京まで飲みに行けたんですが、ここだと飲みに行くにも車を使うしかないから一人ではどうすることもできなくて。夜ひとりで何もやることがない時間は本当に辛かったです」と、夜ひとりになった時の孤独が本当に辛かったと言います。
しかし、12月に県が郡上市で主催した研修会に県の担当者から誘われて出席した際、郡上市の移住支援組織を紹介され、そのまま飲み会に参加したことから交友関係が広がりました。「人から人へ縁がつながって、今は、一緒に遊んだり食べたりする近くの仲間ができました。先日も一緒にスノーボードに行ったし、楽しんでいます」と笑顔です。
きっかけは一つの出会い。そこから開ける未来があります。
「数ヶ月前まで東京の人混みにいた自分が、今、こうして雄大な自然の中で仕事も生活も充実した日々を過ごせているのは、和田さんをはじめ、周囲のたくさんの方々のおかげです。岩瀬相談員や県や郡上商工会の方、つないでくださった関係者の皆様に感謝しかありません。良い人にめぐり会えて人生が変りましたし、移住してきてからも、すてきな方々に出会えて楽しい毎日です。私自身は、まだまだこれからで、今はとにかくアマゴ養殖の仕事を覚え、一人前になることが最重要課題ですが、新しい出会いによって、あっという間に生き方が変りました。だから、移住・定住+継業は、一つのチャンスであることは確かです。新しい自分を見つけたい人は、選択肢として考えてみてはいかがでしょうか。まずは、窓口などに相談し、しっかり自分で見極めてみればよいと思います」
西川さんは、劇的に変った自分をふり返って、そんなメッセージをくれました。
<「清流の国ぎふ 移住・交流センター」 相談員から> 東京窓口/岩瀬千絵つなぐことが私の仕事です。
移住や起業をお考えなら、ぜひ、お気軽に窓口をお訪ねください。
西川さんに、アマゴ養殖事業の継業という情報を最初に伝え、今回の成功事例の発端を作ったのは「清流の国ぎふ 移住・交流センター」東京窓口の相談員である岩瀬千絵さん。岩瀬さんは、西川さんとある程度会話をした上で、話の流れから継業でアマゴ養殖の仕事があること話しましたが、そのときは特に反応がなく、後で西川さんからメールをもらって驚いたそうです。
「西川さんは岐阜県を希望していたわけでもありませんし、飛騨小坂の釣り堀で働きたかったなんて全く聞いていませんでした。縁って、ほんとうに不思議」と感慨を口にします。
西川さんと再び会って「かのみずあまご園」の話をする前に、岩瀬さんは県の担当者に詳細を確認し、慎重に情報を伝えました。継業は事業の機密情報が絡むので、情報提供には慎重を期します。しかし、西川さんが現地訪問を希望し、その後は、前述の通り、トントン拍子の展開となりました。
「たまたまタイミングが良かったのかもしれませんが、多少は協力できたのかなとうれしいです。今は西川さんが頑張って無事引き継ぎをされることを祈るばかり。つないだ立場としては責任も感じています。だから、郡上市での研修会で再会した時には、西川さんに知り合いを紹介したりもしました。移住・定住にしても継業にしても、うまくいくかどうかはご本人の頑張りに加え、周囲のサポートや連携が欠かせないと思います。私自身もいろいろな方に助けていただいている身ですが、そのつながりや情報を生かして、これからもいろいろな人と人を、人と地域をつなげていきたいと思います。岐阜県の継業支援は始まったばかりですが、紹介できる案件も少しずつ増えてきました。是非気軽にご相談ください」
岩瀬さんは、笑顔で呼びかけました。